理解者の支援。ヘルストロン、国境を越える
ヘルストロンとその効果に白寿ファンが生まれていきます。一般のお客様に混じって、新潟鉄工所や日本車両の社長、小田急の総帥、佐藤栄作元首相などが通院・愛用され、評判は広がっていきました。
やがてヘルストロンはよき理解者の支援を受け、全国へ、そして世界へと普及していきます。白寿健康クラブが全国に設立され、普及の拠点になったほか、昭和43年(1968年)には(財)日本船舶振興会(現(財)日本財団)の笹川良一会長の協力もあり、インドの「アジア救病センター」にヘルストロンが寄贈され、グローバルな活動がはじまります。
続いてフィリピンの国立療養所にも寄贈。イメルダ大統領夫人、ガルシア厚生大臣が多くの人々とともに贈呈式で出迎えてくれました。これを契機にブラジル、ペルーなどの中南米、アジア各国での導入が確実にすすんでいきました。

佐藤首相からの色紙

宮崎博士の巡回風景

挨拶するイメルダ大統領夫人
TBSのテレビ番組で紹介され、一気にブレーク

モントリオール大学 ハンス・セリエ博士
世界にヘルストロンが紹介された時期、国内でもヘルストロンはマスコミに華々しく登場し、その人気に火がつきました。きっかけとなったのは、東京虎ノ門の船舶振興ビル10階の虎ノ門白寿診療所に設置した100万ボルト装置の公開実験でした。
時は昭和41年3月(1966年)。TBSテレビが診療所内にカメラを持ち込み、約20分にわたって超高圧電界の人体負荷実験を放映したのです。この番組を契機に10を超えるメディアが電波や活字によって100万ボルトの治療風景を伝えたことで、以降、問い合わせや注文が殺到します。
原親子も、海外に積極的に飛び出し、ヘルストロン普及のための行脚を行いました。特に南北アメリカには度々足を運び、計8ヶ国25ヶ所で講演しました。カナダのモントリオール大学へは、三位一体の健康哲学と極めて近い「ストレス学説」を唱える世界的に有名なハンス・セリエ博士と会い、ヘルストロンへの理解と賛同を得るなどの大きな成果を手にしました。